過日、古今讃岐名勝図会を紐解いた折り、仁尾に於ける吉田氏の記述に注目した。この件に関しては、既に、本ブログに記している。
その後、優れた先学である佐藤氏が、新たな著作を、お届けくださった。珈琲をいただきながら、お話を拝聴し、幾つかの関連する遺跡を、ご案内申し上げた。数多のご高説を賜わり、実に有意義な時間であった。佐藤氏のご教示から、以下の小文を認めてみた。学恩に、心からの感謝を捧げるものである。
合掌。
200石 植松 少兵衛 生駒隼人組
100石 西沢 権兵衛 宮部右馬之丞組
150石 周敷 平兵衛 船手
135石 小久江彦左衛門 横目奉行
100石 井上 右衛門九郎 上坂勘解由組
100石 関 志摩介 生駒左門組
77石 3斗 6升 本蔵入(生駒家直轄地)
讃岐生駒藩、藩政後期の下高野には、上記の侍たちの知行所があった。その内の一人、植松少兵衛は、讃岐守護代香西氏の一門である。七宝山を越えれば、嘗て香西氏が代官を務めた仁保(現仁尾町)である。此処に植松少兵衛の知行があることは、まことに感慨深い。亦、船手の周敷平兵衛も知行を得ている。このことの意味を、此れから考えてみたい。
さて、この下高野には、西讃府志、或いは、古今讃岐名勝図会に依ると、興隆寺という古刹があったそうである。
この二著の記述を見ると、西讃府志編纂時には、未だ寺があったようである。然し、古今讃岐名勝図会の文意では、もはや廃寺になっていることがうかがえる。
私は、昨日、興隆寺跡へ出かけた。先の書冊に記されているような寺の遺構は、草木に隠れ見出すことが出来なかったが、磨崖仏や五輪塔の一部は確認することが出来た。この近辺は不思議に満ちている。本山寺境内の大きな五輪塔に関しても謎である。合掌。
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