2015年3月27日金曜日

花稲村 (豊田郡花稲村)  

香川甚太夫に係わる調査で、都合三度、花稲の地を訪れた。その折、同地は、大谷池からの導水が絶たれ、水に困ったとの話を聴いた。
仮に、生駒家の讃岐支配が続いていたならば、斯様なことにはならなかった筈である。実際、水が絶たれたのは、生駒家廃絶後のことであった。
此処に、生駒時代の花稲村、そして隣接の柞田郷の様態を、ご紹介申し上げる。と同時に、花稲村に知行所を有した五人の生駒家家臣(大石玄鉄、河崎惣右衛門、清水忠兵衞、高原文左衛門、眞野勘右衛門)の総知行目録も添付する。
彼らの役職、或いは知行所の分布を見れば、御理解いただけるかと思うが、彼らが居たならば、大野原の開拓が行われても、勝手に水の供給を止めることなど出来なかったのである。
合掌。



上記史料は、合田學著「讃州豊田郡志史料篇-1 生駒氏統治時代」からの引用である。
合掌。

2015年3月22日日曜日

西讃府志に見る香川氏 01  香川甚太夫

泰山府君祠の現在位置は何処かというご質問がございましたので、2017年12月31日、本スレッドの末尾に、場所(香川県観音寺市大野原町花稲の最北端、農道整備事業記念碑傍)を示す地図を増補いたしました。
合掌。



私は、生駒藩政史に関心を抱いていた為、後の京極藩が編纂した「西讃府志」は、殆ど紐解かずに参った。その私が、今、「西讃府志」を興味深く読んでいる。守護代、香川氏の痕跡を探る一助にならないかと考えたからである。今後、「西讃府志に見る香川氏」の表題の下、管見に触れた香川氏に関する記述をご紹介申し上げようと思う。
合掌。

まずは、
香川甚太夫のこと。
彼は、豊田郡花稲村友広の地に於いて、祈祷を業としていた。
以下、西讃府志の記述である。
それにしても、
泰山府君祠が存在し、香川氏が係わっていた事実に、正直、震撼した。
合掌。 


泰山府君祠 
友広ニアリ、祈祷師、香川甚太夫 是ヲ祭レリ



今日は、午後から、旧花稲村に赴き、 泰山府君祠の痕跡を探った。然し、此処でも、明治期の神社整理の壁に突き当たった。加えて、他地域と違い、小字名も半数近くが人々の記憶の底から消えていたのだ。何とか、香川屋敷(香川甚太夫末裔の居宅か)なるものが、嘗て存在したという伝承だけは確認した。
合掌。

追記
西讃府志は、江戸時代後期の成立だから、その頃には、確かに、「泰山府君祠」はあった。陰陽道に係わる神祠だけに、心惹かれる。
以下の史料は、江戸初期の花稲村の様態を記したものである。合田學著「讃州御国中村切高惣帳・生駒家寛永組分知行帳(1998年6月5日第三版)」から引用した。本書には、泰山府君祠のことは記されていない。然し、この当時、花稲村に無かったとも断言は出来ない。何故ならば、此処に記された項目は、あくまで、生駒宗家の直臣に係わるものだけだからだ。
尚、近在の中田井に、太夫が名に付く、旧守護代、香川氏の分家がある。香川籐太夫、香川長太夫、香川平太夫の名が伝わっている。香川甚太夫も、同族の可能性がある。ただ、家紋は異なるようである。
合掌。 



補遺 3月27日
昨夜、花稲在住の畏友、合田大兄が、友廣(友広)の地を記した地図をご持参くださった。
漸くにして、懸案であった友廣(友広)の比定が適った。
友の情けに、心からの感謝を捧げる次第である。
以下は、持参くださった友廣(友広)の地図。
合掌。

この赤線で囲まれた地域内に、香川甚太夫の屋敷、並びに、私塾、祈祷所等があったようである。現在は全て農地と化している。亦、赤枠の上の辺りに、香川氏の墓所がある。尚、泰山府君祠の高石塔は、現在、道路、若しくは、パン工場の敷地になっているようで、現地での確認が適わなかった。何処かへ移されたのであろうか。
合掌。


補遺 3月28日
本日、泰山府君祠を確認した。石の塔だった。工業団地の造成で、何と、墓地の一角に移されていた。言葉もない。
合掌。





補遺 3月29日
今日は、豊田大兄を現地にご案内した。
香川氏の縁者で、香川氏移住後、近年まで泰山府君祠をお守りされていた大西氏の居宅跡も確認した。
地元、友広の地で、何度も私にご教示くださったお二人のご婦人に心からのお礼を申し上げる。
合掌。





補遺 4月1日
嘗て、大野原町が刊行した「ふるさとの地名」の中に、高石塔(たかぜきとう)に関する記述と写真が掲載されていた。
貴重な写真なので、引用させていただく。
合掌。


補遺 2017年12月31日
泰山府君祠の現在位置、地図上で赤丸、そして、赤囲いで記しました。
合掌。

2015年3月18日水曜日

首山

友人の体調が悪く、昨日午後、同道して、首山の観音様へお参りしました。この観音様のことは幼少の頃より存じており、此れまでも何度かお参りをしているのです。友の病の平癒を祈るものです。
この首山の地、高瀬方面からだと山越えの道になります。峠を下り始めると、朝日山が見えてくるのです。それで、僕は、麻だとばかり思っていました。ところが、首山は、勝間だったのです。
以下、西讃府志に記された江戸時代後期の首山の山神祠、天神祠、そして観音堂に関する記述をご紹介申し上げます。
合掌。