2015年12月22日火曜日

太閤様御與力 上坂丹波守

 



元禄時代の観音寺を描いた絵図には、観音寺城(高丸城)が記されている。
合掌。

太閤様御與力 上坂丹波守 古城 今田地也 酒屋町ノ内 元和年中御亡




参考
西讃府志に収録されている「教西物語」を添付する。
合掌。



2015年12月4日金曜日

讃岐鳥坂の人面岩

 人面岩 暁鐘成著「金毘羅参詣名所図会(弘化四年・1847年)」所収

 人面岩 宮武外骨著「人面類似集(昭和6年・1931年)」所収

人面岩 進藤政量著「讃岐回遊記(寛政11年・1799年)」所収  香川叢書版(1943年刊行)


過日、暁鐘成著「金毘羅参詣名所図会」を紐解いた折り、人面岩なるものに遭遇、驚いた。早速、現地へ出かけ、確認を試みたのだが、相見えることは適わなかった。
此処に、先人が記した書冊の内より、人面岩に関する記述を抽出、ご紹介申し上げ、同好の士と知識を共有致したく思う。
合掌。

2015年12月3日木曜日

神社参拝唱歌

石田三成公の次男が、杉山氏と姓を変え、弘前の津軽氏の下にいたこと、嘗て、記したかと思います。その彼の知行所や創建した寺社に関する調査中に、北津軽郡神社誌と出逢いました。この唱歌は、その冒頭を飾っていました。石田三成公末裔探索の旅の途上での奇しき出逢いに、心からの感謝を捧げるものです。
合掌。




2015年11月5日木曜日

高良社 (高良神社)  讃岐編 その一

「生駒家家臣分限ノ記(合田學校訂)」を紐解いていくと、末尾部分に、寺社知行、御初尾米、寺領米ニテ渡スという三つの項目があることに気が付く。此処には、寺社併せて、八十の名が記されている(萩原寺のみ重複掲載)。


一、寺社知行

三十石 引田八幡領 <譽田神社>
二十石 白鳥八幡領
三十五石 水主宮領
一石五斗四升 入野八幡領 <石清水八幡社>
三石六斗 津田浦宮領 <石清水神社>
十石 観音領 <志度寺>
二十石 千手寺 <専修寺>
六石 井戸宮 <和爾賀波神社>
四十三石三斗二升 屋嶋寺
五斗五升 東片本八幡領
三石七斗六升 木太天王領 <牛頭天王>
七石 林宮領 <岩田八幡宮>
一石五斗 池田八幡領
二石四斗二升 植田八幡領 <藤尾八幡宮>
一石二斗 本濱天神領 <中黒華下天満宮>
十六石一斗三升 石清尾太夫 <友安氏>
八石 石清尾宮坊 <宝寿院>
百五十石 勝法寺 <興正寺別院>
三石 松縄宮領 <熊野権現>
五十石 一之宮領 <一宮田村定水大明神>
三石七斗四升 由佐八幡領 <冠纓宮>
百石 八幡領 <不詳>
十八石二升 根香寺
六石一斗六升 香西八幡 <藤尾八幡宮>
二石二斗 飯田宮領 <飯田八幡宮>
百石 法泉寺
二百五十石 伊勢領 <伊勢、伊勢神宮>
六石四斗三升 河部八幡領
六十三石八斗 国分寺
二十七石 瀧之宮領 <牛頭天王>
二石五斗 菩提寺 <菩提院>
百石 多賀領 <江州、多賀大明神>
九斗 山田宮領 <山田八幡宮>
百石 玉龍院 <京都、玉龍院妙心寺>
百二十石 愛宕領 <山城、愛宕権現>
六十石 白峯領
四石五斗 北条天王領 <崇徳天皇社>
六石五斗 宇足津宮 <宇夫志奈大明神>
二石 宇足津弁財天
二石六斗四升 岡田八幡 <上野八幡宮>
五十石 弘憲寺
一石九斗 福成寺
九斗六合 高林寺 <専立寺>
一石四斗三升 奥河津宮領 <庄宮八幡宮>
十八石 見性寺
十六石 柞原宮領 <山北八幡宮>
八斗 柞原権現 <素盞大明神>
一石二斗 中分宮領 <會下天満宮>
二十三石五斗 金毘羅領
三百六石五斗 松尾領
一石五斗 大日領 <春日大明神>
九石三斗 まんだらじ <曼陀羅寺>
五十石 誕生院 <善通寺>
四石 下吉田宮領 <八幡宮>
三石 下高瀬八幡
三石 楠井明神領 <新田大明神>
一石 楠井権現領
一石 楠井薬師領
二石 柞原寺
四石七斗 神田宮 <大水上神社>
二石七斗三升 財田上八幡領 <鉾八幡宮>
二石六斗 財田上龍王領
一石四斗 財田上厳嶋之宮
二石一斗 財田中乗覚院 <高橋氏>
一石五斗四升 財田西天神領
六石六斗 本山大明神 <高良大明神>
一石五斗四升 持寳院 <本山寺>
三石 笠岡宮領 <宇賀大明神>
四十石 けんぎょう與 <寳壽院神宮寺>
三石三斗 仁保宮領 <賀茂大明神>
一石 覚城院
三石九斗七升 萩原寺
六石六斗 興昌寺


一、御初尾米

切米十石 萩原寺 
切米五石 薬師坊<鞍馬>
切米五石 窪之坊<高野山> 
切米五石 地寳院<高野山>
切米五石 満太夫<熱田>


一、寺領米ニテ渡ス

切米四十石 寒松院 
切米三十石 香林寺



その内、社と寺(別当寺)双方に、地方知行が給されているのは、三件のみである。

   ① 十六石一斗三升 石清尾太夫 <友安氏>
     八石 石清尾宮坊 <宝寿院>
   ② 二十三石五斗 金毘羅領
     三百六石五斗 松尾領
   ③ 六石六斗 本山大明神 <高良大明神>
     一石五斗四升 持寳院 <本山寺>   

上記③の本山大明神、この社は高良大明神とも称されていた。この社が、本稿で取り上げる高良社の鏑矢である。

 金比羅参詣名所図会第三巻所収

金比羅参詣名所図会第三巻所収

僕は、この高良という言葉の不思議な響きに魅せられた。それと、何故か、とても懐かしい思いがしたのである。それもそうであろう。幼い頃より数限りなく登り降りした琴弾八幡宮石段、源義経公寄進と伝えられる鳥居を潜った左手にも、高良社があったのだから。幼い頃から眼にしていたのである。勿論、確たる意識があったわけではないが、お参りもしていたことと思う。

地図 琴弾八幡宮石段

九月初頭、佐藤篤氏が、新著「戦国時代香西伊賀守家」を届けてくださった。数年前から、細川氏、観音寺香川氏、そして、三好氏に関心を抱き、文献を読み進んできた僕には、佐藤氏の新たなお仕事は、砂漠に与える水のように、心身に浸透してきた。此れを契機に、幾らか違った角度から歴史が見えるようになった。高良社も、その一つである。
高良社は、香川県神社誌の記載に依ると、六社、確認することが出来る。そして、その内、四社までが、財田川水系にご鎮座されていた。ただ、残念ながら、一社が、昨年、廃社となっている。
以下、僕が、確認した財田川水系の四社、そして、大浜の一社、香西浦の一社に関して、現況を伝える写真、西讃府志と香川県神社誌の記述、そして、現地確認の為の地図を付しておく。
僕は、此れから、この水系に関する調査を進めていこうと思っている。
合掌。


追記
廃社になった一社に関しては、写真の掲載を控えた。亦、香西の高良神社には、未だ参詣が適わないでいる。
合掌。


高良神社 (香川県三豊市豊中町本山甲)






 西讃府志

 香川県神社誌

地図 香川県三豊市豊中町本山甲


高良神社 (香川県観音寺市八幡町・琴弾八幡宮境内社)

西讃府志

 香川県神社誌
 香川県神社誌

地図 香川県観音寺史八幡町


高良神社 (香川県三豊市山本町辻・菅生八幡宮境内社)



 西讃府志

 香川県神社誌
 香川県神社誌

地図 香川県三豊市山本町辻



高良神社 (香川県三豊市山本町財田西)

 西讃府志

 香川県神社誌

地図 香川県三豊市山本町財田西


高良神社 (香川県三豊市詫間町大浜・船越八幡宮境内社)

 西讃府志

 香川県神社誌

地図 香川県三豊市詫間町大浜


高良神社(香川県高松市香西町)


 香川県神社誌

地図 香川県高松市香西町

2015年10月7日水曜日

大西神社 讃岐編

この稿、未完。

11月3日、以下の項目に関して、増補いたしました。
旧稿は敢えて訂正せず、増補として新たに拙文を加える形式をとりました。
亦、参考地図も付しました。
合掌。
③ 大西神社  三豊郡和田村箕浦大西山



阿波の友人が、母方の姓である大西氏に興味を持ち、古城址などを探索していた。僕も、彼と遺跡巡りを兼ねた山歩きの中で、自ずと大西氏に関する知識を得た。特に、大西氏嫡流最後の当主であった大西上野守が、吾が父祖、上坂丹波守と係わりがあった事実を知り
、心が震えた。そうして、大西氏と僕との距離は、徐々に縮まっていった。
そんなこともあって、若い世代の方々の為、数多分布する大西神社、或いは大西氏に係わる伝承に関して、若干の記述を試みようと思う。ただ、こうしたことは、既に、先学、田村左源太氏が、名著「阿波大西氏研究」で扱われているのだが、僕の調査で、新たに見出した社も多々あるので、此処に、敢えて、拙文を記すこととした。
合掌。


参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
讃州生駒家家臣 上坂氏
http://iewake.blogspot.jp/2012/06/blog-post_7627.html
観音寺城(上坂勘解由)、引田城(生駒左近)
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html
赤松則房++++ 阿波一万石(置塩領)
http://kanonji.blogspot.jp/2015/01/blog-post_8.html
観音寺城については、以下のURLを参照されたい。
観音寺十王堂跡地については、以下のURLを参照されたい。 
http://kanonji.blogspot.com/2010/01/blog-post.html



以下、田村氏が、その著作の中で取り上げた大西神社(番号①から⑥)、そして、新たに著者が出逢った寺社(⑦から⑬)を列挙し、それぞれに参考史料を付すことにする。


① 大西神社  仲多度郡七箇村大字塩入
      著者、現地にて、神祠の所在を確認済。

讃岐廻遊記 大西廣忠古城跡 

仲多度郡史 大西城址

地図 仲多度郡まんのう町塩入


② 大西神社  三豊郡河内村長野
      著者、現地にて、神祠の所在を確認済。


地図 三豊市山本町河内


③ 大西神社  三豊郡和田村箕浦大西山
      著者、所在地の見当が付かず。
      西讃府志には、和田村の箕浦村との境界域を大谷山と記している。大西山は大谷山の

      誤記であろうか。

補遺

MTBにて、当該地域に赴いた。讃岐と伊予の国境付近、神田神社の下辺りが、字大西とのことである。亦、社の背後にあたる山が、大西山であった。西讃府志に名が記されている大谷山から、西に約一キロの地点である。ただ、きょうは、大西神社の確認は適わなかった。先に記した神田神社本殿(拝殿背後)の側面には、大西氏の名が記されていた。少なくとも、近在に、大西氏が土着していたことは確かである。
合掌。

 
西讃府志 姫江郷和田村大谷山


地図 観音寺市豊浜町箕浦大西


④ 大西神社  三豊郡柞田村和田
      著者、現地にて、神祠の所在を確認済。柞田村ではなく、和田村道溝であった。

香川県神社誌 三豊郡 大西神社

地図 観音寺市豊浜町和田道溝


⑤ 大西神社  三豊郡柞田村山田尻
      著者、現地にて、神祠の所在を確認済。

三豊郡柞田郷山田尻村

地図 観音寺市柞田町山田尻


⑥ 大西神社  三豊郡大野原村大字中姫赤岡山
      著者、現地にて、神祠の所在を確認済。

西讃府志 姫江郷中姫村

地図 観音寺市大野原町中姫
   

 大西神社  綾歌郡綾川町西分
      著者、現地にて、神祠の所在を確認済。
      以下の地図に見える八幡神社(椎尾八幡神社)の北西、車で十分以内の位置にある。

香川県神社誌 綾歌郡 大西神社

地図 綾歌郡綾川町西分


⑧ 大西十二社権現(十二神社)  三豊市山本町神田
      著者、現地にて、神祠の所在を確認済。 

西讃府志 勝間郷神田村 

香川県神社誌 三豊郡 十二神社

地図 三豊市山本町神田


⑨ 大西神社  三豊市豊中町上高野
      著者、現地にて、神祠の所在を確認済。

地図 三豊市豊中町上高野
      

⑩ 大西神社  観音寺市一ノ谷中田井
      著者、現地にて、神祠の所在を確認済。

西讃府志 山本郷中田井村 

地図 観音寺市一ノ谷中田井


⑪ 角田神社(大西神社)  観音寺市栄町
      著者、現地にて、神祠の所在を確認済。

西讃府志 豊田郡坂本郷下市浦

香川県神社誌 三豊郡 角田神社

地図 観音寺市栄町


⑫ 大西上野守 墓所  
上記URLより、拙文を転載する。

時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
大西上野守(大西上野介)は、阿波を離れ、上坂丹波守の庇護を受け、晩年を観音寺で過ごしていた。

過日、阿波の友人から、上坂氏と大西氏の親交を記す文書がある旨、教示を受けた。当該文書は、「三好町史 第二章・中世の三好町 第四節・戦国時代の三好町 五・蜂須賀氏の入部と大西氏」中に記されていた。興味深い記述なので、以下、引用する。
阿波の友、そして、町史の著者、刊行者に、心からのお礼を申し述べる。
合掌。
ところで、三好郡地方の状況はどうであったのであろうか阿波国全体の平地と同じく、豪族という豪族はすべて崩壊していた。長宗我部元親の下で三好郡を支配して大西上野守頼包は、すでに井内谷隠棲して静かに余生を送るという姿が問題になるとは思えなかった。ところが土佐兵が土佐へ引き揚げた後には、三好郡各地へ隠住んでいた上野守遺臣たちが続々と井内谷の上野守のもとへ集まって来た。あたかも祖谷山や仁宇谷の土豪たちが蜂須賀氏に対し激しく抵抗してる時であった。蜂須賀氏は使者を井内谷の上野守へ遺し、蜂須賀へ協力を依頼し、一万石を支給しようと申しでた。上野守にても、この大きな時代の流れにさからうことの不可能を知っていたのでこの使者を丁重に迎え服従するほかはなかった。使著は、上野守が三好郡地方で極めて大きなを持っているとを察知し、いったんは領地を召しあげたのであるが、三好郡地方で一万石を与えることを約束したである。(漆川大西系図他)
ところが、やがて池田城が修築れ、阿波城のつとして重臣牛田掃部尉一長が城番として入城し、前述のように、祖谷山などを除く他の地方では豪族の抵抗もなく支配が行われる通しが立って来た。こうして上野守立場は緻妙なものとなって来た。やがて蜂須賀氏から一万石の約束であったが、改めて三〇〇〇石で召し抱えたという申入れがあった。上野守は、家臣たちをそれぞれの本拠に帰し、自も三〇〇〇石を辞して牢人した。
上野守はやがて讃岐坂本城(讃岐観音寺城)に高阪丹波守(上坂丹波守を頼りここで生涯を終わることになった。上野は行年四三歳。時に天正十八年(一五九〇)七月九日のことだったという。その墓も、琴騨公園(観音寺十王堂跡地、神仏分離後、琴弾八幡宮境内の改造で、その存在さえ不明になった。 (192ー193頁より、引用)
漆川大西系図
天正十三阿波領地之時大西上野御尋有知行壱萬石被下筈、在板野勝瑞村其後背蓬庵公心意牢浪而立寄讃州観音寺阪本城主高阪丹波守上坂丹波守)終生涯」(199頁より、引用)

補遺
先述の友人の案内で、大西系図の一本を見る機会を得た。其処にも、以下のような記述があった。
「牢浪而寄立讃州観音寺坂本城主高坂丹波守(上坂丹波守)」
付記
括弧内に、赤字にて、注記を施した。
観音寺城については、以下のURLを参照されたい。  
http://kanonji.blogspot.com/2011/11/blog-post_3261.html
観音寺十王堂跡地については、以下のURLを参照されたい。 
合掌。

増補
昨日、池田町史上巻(173-174頁)を見る機会を得た。阿波の友人(大西氏末裔)に感謝する次第である。
以下、当該箇所をアップロードする。本書刊行者、執筆者の方々に、心からのお礼を申し述べる。
合掌。

池田地方(三好郡地方)は、かつて、白地城大西氏に支配され、各地には大西一族が勢力を張り(前述の池田の宗安、井川の田野、昼間の片山等)、地侍、小領主在地支配体制ができあがっていた。ところが、長宗我部氏の大西侵入は、この古い支配勢力を一掃させてしまったのである。
元親軍が土佐へ退いた後の一種の空白状態について、その社会状況をうかがう事のできる史料は何もないが、井之内谷に隠せいしていた大西上野介の存在が大きく浮かびあがったことは確かであろう。各地に散らばっていた大西一族は井内谷へ集まって来たであろう。蜂須賀氏入国当初、支配勢力がもとのまま残った祖谷地方をはじめ剣山周辺の山分では、蜂須賀氏に対する激しい抵抗が起こった。大西氏の存在に蜂須賀氏が大いに気をつかったであろうことは十分想像される。
元親の讃岐平定後の上野介の動静は、「南海通記」「元親記」「長元記」等にも記されていないのは、前述のように、井内谷に隠せいしたためであろう。『阿波志』に「元親の阿波入り、上野守先鋒となり後井内谷に居住す。瑞雲公采地を賜ふ。辞して讃岐室本城(観音寺城)に至り、高阪氏(上坂氏)方に老す」とある。結局、蜂須賀氏から給地を賜ったが、やがて辞退し、讃岐の高阪氏(上坂氏)の食客となったというのであるが、辞退して牢人となった理由などには触れられていない。『阿波志』の編者が藩主をはばかって略したのであろう。
漆川大西系図に
天正十三年蓬庵公阿波国御領地之時、大西上野御尋あり、知行壱万石下さる筈で、板野郡勝瑞村に在り。其の後、蓬庵公の心意にそむき、牢浪して、讃州観音寺阪本城主(観音寺城主)高阪丹波守(上坂丹波守)に立寄り生涯を終る
と記されている。
山城谷大野系図には
蓬庵公御討人の後、上野御尋ねにて召出され、高三千石拝領。その後不足申立て御国を立退云々。高阪丹波守(上坂丹波守)へ便り、終に此所にて卒す。
とある。
大野素姓記にもこれに似た記事があるが、上野介の勢力の大きなことを察した蜂須賀氏は、一万石を給する約束で、長年の城下であった勝瑞に移し、待命の後三千石を給することにしたのであろう。阿波藩の初期の動揺が静まったとき、約束の一万石を三千石に減じたことに対して、上野介は謀抜するほどの力はなく、不満の気持を牢人することで表明する他なかったのであろう。
上野介の死亡は天正一八年七月九日、年四三歳といわれ、その墓は高阪氏(上坂氏)の墓地(観音寺十王堂内)にあったと伝えられる。その後、琴弾公園の整備によって所在不明になったということである(神仏分離後、琴弾八幡宮の施設が、山上のみならず山麓にも建ち、武士団の墓所は荒廃した)

付記
括弧内に、赤字にて、注記を施した。

参考
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
田村左源太著「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post_18.html

現在、十王堂と称されている地域は、江戸時代、当地の武士団の墓所でした。観音寺城(高丸城)城主、上坂丹波守、上坂勘解由といった人々の墓所が営まれていましたし、足利時代の侍名を記した骨壷なども発掘されています。
明治以降、神仏分離により、嘗ての寺域内に八幡宮の施設が新設された為、その面影は潰えさってしまいました。残念なことです。
阿波サイドの史料に拠ると、大西上野守(大西上野介)の墓所も営まれていたそうです。
合掌。

地図 観音寺市八幡町十王堂内 大楠の傍


⑬ 善正寺  観音寺市柞田町北岡

三豊郡柞田郷北岡村

地図 観音寺市柞田町北岡




付記
大西氏の出自に関して、隣国阿波説に異を唱える心算は毛頭無い。僕が関心を持っているのは、讃岐への進出、或いは避難の経路、そして、その時代である。そうしたことを勘案する時、大西神社は、良き手引きとなる。
合掌。