伝える会 日本史
太閤様御與力++上坂丹波守++古城++今田地也++酒屋町ノ内++元和年中御亡
2018年1月3日水曜日
2017年9月23日土曜日
ここを見ずに語る歴史など、世迷いごとです。いい加減、この辺り、大人にならないと、日本は、この世界で生きていけないかと思います。
規矩高政 (肥後守護)
僕は、規矩高政(肥後守護)、この人のことが気に懸かります。北条氏一門、金沢氏の一族です。
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の時代を、善悪の立場から見る歴史感が蔓延してしまった吾が祖国、残念なことです。元寇という外圧があって、他国からの侵略という脅威を脳裏に意識した人々と、己が立身、己が所領にしか感心が及ばぬ者たちとの懸隔は大きかったのです。ここを見ずに語る歴史など、世迷いごとです。いい加減、この辺り、大人にならないと、日本は、この世界で生きていけないかと思います。
歴史教科書に関しての煩瑣な注文記事が散見されますが、僕に言わせれば、壬申の乱、天武天皇、蝦夷を含む東北史、そして、鎌倉幕府(特に、北条氏)の再評価こそ、肝要かと思うのです。いや、焦眉の課題とも言えます。
合掌。
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鎌倉幕府滅亡後の、各地に展開していた北条氏勢力の消息を知りたい。そして、顕彰したい。
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未知の分野の学習を始めたのだけれど、なかなか、橋頭堡を確保出来ない。でも、絶対に必要な知識なので、どうしても得たい・・・・・。それは、鎌倉幕府滅亡後の、各地に展開していた北条氏勢力の消息である。主従の絆が強かった人々で、鎌倉のみならず、滅亡時には、各地で、数多の人々が戦い、敗れ、自刃した。九州の地で一年有余戦い抜いた規矩高政 糸田貞義らも、そうした人々であった。彼らは、主を代えて生き残ろうとは思わなかった人々である。彼らは、認識者であった。僕は、彼ら、全ての末期が知りたい。そして、顕彰をしたい。
鎌倉幕府、大軍を西に送っていた為、鎌倉が軍事的空白地帯となり、あっという間に、新田氏如きの弱小勢力に、鎌倉の町を席巻されてしまった。これを、備えを怠っていたと、後世の人は言う。果たして、そうであろうか。元寇を期に海外からの国難を意識した政権と、身近の経済を最重点とした武士との乖離は大きかったのである。このことを理解せずして、北条氏を論じても、仕方が無い。僕流に記せば、新田氏は、日本人としてはやってはいけない謀反を起こしたのであった。ただ、それだけである。英雄扱いすべき武将ではない。
僕は、日本は確かに神国だと思う。何故なら、絶対絶命の窮地に神風が吹き、夥しい侵略軍の艦船と将兵を海に屠ってくれたからである。ただ、この時の鎌倉幕府、特に、執権の北条氏は無能では無かった。現今の政府などと違い、専守防衛などという戯言を信じない。幕府は、日本侵略の敵前線基地である朝鮮半島への先制攻撃をも考えていた。然し、当時の造艦能力が、宋の技術を継承した元と比べ、大人と赤子ほどの違いがあり、制海権の確保が出来ないことが分かった為、断念したのであった。陸戦に於いても、そうである。飛鳥時代の豪族連合の寄せ集め軍勢と、元寇時の日本の侍たちの軍勢は、さほどの違いが無かった。その非力を認識した幕府は、新たな軍制を布いた。当然、武士各自の負担は増える訳である。為政者は次の有事を考え、一般武士は喉下を過ぎた危機を忘れる。そして、それが不満となり、鎌倉幕府を倒すこととなった。
以後の歴史を紐解けば、外敵の存在などという意識は吹き飛び、南朝だ、北朝だということになる。折角の覚醒するチャンスを逃し、日本は、児戯に類した政治過程へと向かう。そして、再度の黒船が出現するまで、愚かな眠りに就くのである。
とても、残念なことだと思う。
合掌。
2016年6月5日日曜日
天野藤内遠景候に関する史料
讃岐三野郡本山庄に御鎮座される高良社の調査過程で、鎌倉政権に於いて枢要な地位を占めた天野藤内遠景候に出逢った。
候に関する史料は、ブログ高良社に於いて、逐次、公開して参ったが、こちらにも、これまでの提出史料の表題、及び、URLを、纏めて記しておくことにする。
合掌。
藤原遠景、爲鎮西九國奉行人、又給所々地頭職等
この人は、高良社が御鎮座される本山庄と係わりをもった最も有力な武将であった。然るに、この事実に言及した当地の書冊は皆無である。為に、彼の記録を、ここに纏めてみることにした。
合掌。
史料 その八 天野遠景、款状を執権北条義時に致して恩賞を望む
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/03/blog-post_25.html
史料 その十 吾妻鏡に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/04/blog-post_21.html
史料 その十一 大日本史料に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/05/blog-post_1.html
史料 その十二 鎌倉遺文古文書編に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html
史料 その十四 古今著聞集に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/05/blog-post_30.html
史料 その十五 曽我物語に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/06/blog-post.html
史料 その十六 平家物語に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/06/blog-post_84.html
史料 その十七 北條九代記に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/06/blog-post_3.html
候に関する史料は、ブログ高良社に於いて、逐次、公開して参ったが、こちらにも、これまでの提出史料の表題、及び、URLを、纏めて記しておくことにする。
合掌。
藤原遠景、爲鎮西九國奉行人、又給所々地頭職等
この人は、高良社が御鎮座される本山庄と係わりをもった最も有力な武将であった。然るに、この事実に言及した当地の書冊は皆無である。為に、彼の記録を、ここに纏めてみることにした。
合掌。
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/03/blog-post_25.html
史料 その十 吾妻鏡に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/04/blog-post_21.html
史料 その十一 大日本史料に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/05/blog-post_1.html
史料 その十二 鎌倉遺文古文書編に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html
史料 その十四 古今著聞集に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/05/blog-post_30.html
史料 その十五 曽我物語に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/06/blog-post.html
史料 その十六 平家物語に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/06/blog-post_84.html
史料 その十七 北條九代記に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/06/blog-post_3.html
2016年5月4日水曜日
御家人交名 その一 閑院内裏造営注文
御家人交名と題し、纏まった史料を紹介して行こうと思う。
その鏑矢として、「吾妻鏡」巻第四十、建長二年三月の項に記された「閑院内裏造営注文」を、全文アップロードする。
四百人を越える名が記された六条八幡宮造営注文(建治元年)には及ばないが、二百人を越える名を確認することが可能である。
合掌。
その鏑矢として、「吾妻鏡」巻第四十、建長二年三月の項に記された「閑院内裏造営注文」を、全文アップロードする。
四百人を越える名が記された六条八幡宮造営注文(建治元年)には及ばないが、二百人を越える名を確認することが可能である。
合掌。
2016年4月1日金曜日
賀茂季鷹著 正誤仮名遣
大日本神代ゆかけて伝へつる雄々しき道ぞたゆみあらすな
本書の著者、賀茂季鷹(山本安房守とも称した)が、神道人としての心を表現した作品である。
彼は、宝暦元年(1751年)に生まれ、長じて、京都上賀茂神社の祠官を勤めた。彼は、大変長寿な人で、天保十三年(1842年)、九十二才で没した。著作には、本書「正誤仮名遣」の他、「万葉類句」、「雲錦翁家集」等がある。
今回の限定公開にあたっては、電子データ化が終了した上坂氏顕彰会図書収集部所蔵本を使用した。初回は、取り敢えず、十葉のみアップロードする。
使用したテキストには、奥付がなく断定は出来ないが、凡例等から勘案すると、天明八年(1788年)に刊行された初版本かと思われる。最終頁には、義慣亭蔵版と記されている。
本書の法量は、縦13.7cm、横18.8cm。表紙には、薄青色の厚紙が使用されている。
合掌。
本書の著者、賀茂季鷹(山本安房守とも称した)が、神道人としての心を表現した作品である。
彼は、宝暦元年(1751年)に生まれ、長じて、京都上賀茂神社の祠官を勤めた。彼は、大変長寿な人で、天保十三年(1842年)、九十二才で没した。著作には、本書「正誤仮名遣」の他、「万葉類句」、「雲錦翁家集」等がある。
今回の限定公開にあたっては、電子データ化が終了した上坂氏顕彰会図書収集部所蔵本を使用した。初回は、取り敢えず、十葉のみアップロードする。
使用したテキストには、奥付がなく断定は出来ないが、凡例等から勘案すると、天明八年(1788年)に刊行された初版本かと思われる。最終頁には、義慣亭蔵版と記されている。
本書の法量は、縦13.7cm、横18.8cm。表紙には、薄青色の厚紙が使用されている。
合掌。
2016年1月27日水曜日
高良社 (高良神社) 讃岐編 その二
本山大明神 (高良大明神)の社領六石六斗は、傑出した数値である。数多ある社の中で、讃岐の内外併せて、四十七の社のみが、生駒家より社領を給されている。その内での六石六斗は、特筆してしかるべきではないだろうか。当時に於ける本山大明神 への人々の崇敬の念が伝わってくる事実である。
生駒家から社領を給された社の一覧 (「生駒家家臣分限ノ記」より抽出)
三十石 引田八幡領 <譽田神社>
二十石 白鳥八幡領
三十五石 水主宮領
一石五斗四升 入野八幡領 <石清水八幡社>
三石六斗 津田浦宮領 <石清水神社>
六石 井戸宮 <和爾賀波神社>
五斗五升 東片本八幡領
三石七斗六升 木太天王領 <牛頭天王>
七石 林宮領 <岩田八幡宮>
一石五斗 池田八幡領
二石四斗二升 植田八幡領 <藤尾八幡宮>
一石二斗 本濱天神領 <中黒華下天満宮>
十六石一斗三升 石清尾太夫 <友安氏>
三石 松縄宮領 <熊野権現>
五十石 一之宮領 <一宮田村定水大明神>
三石七斗四升 由佐八幡領 <冠纓宮>
百石 八幡領 <不詳>
六石一斗六升 香西八幡 <藤尾八幡宮>
二石二斗 飯田宮領 <飯田八幡宮>
二百五十石 伊勢領 <伊勢、伊勢神宮>
六石四斗三升 河部八幡領
二十七石 瀧之宮領 <牛頭天王>
百石 多賀領 <江州、多賀大明神>
九斗 山田宮領 <山田八幡宮>
百二十石 愛宕領 <山城、愛宕権現>
四石五斗 北条天王領 <崇徳天皇社>
六石五斗 宇足津宮 <宇夫志奈大明神>
二石 宇足津弁財天
二石六斗四升 岡田八幡 <上野八幡宮>
一石四斗三升 奥河津宮領 <庄宮八幡宮>
十六石 柞原宮領 <山北八幡宮>
八斗 柞原権現 <素盞大明神>
一石二斗 中分宮領 <會下天満宮>
二十三石五斗 金毘羅領
一石五斗 大日領 <春日大明神>
四石 下吉田宮領 <八幡宮>
三石 下高瀬八幡
三石 楠井明神領 <新田大明神>
一石 楠井権現領
四石七斗 神田宮 <大水上神社>
二石七斗三升 財田上八幡領 <鉾八幡宮>
二石六斗 財田上龍王領
一石四斗 財田上厳嶋之宮
一石五斗四升 財田西天神領
六石六斗 本山大明神 <高良大明神>
三石 笠岡宮領 <宇賀大明神>
三石三斗 仁保宮領 <賀茂大明神>
合掌。
三十石 引田八幡領 <譽田神社>
二十石 白鳥八幡領
三十五石 水主宮領
一石五斗四升 入野八幡領 <石清水八幡社>
三石六斗 津田浦宮領 <石清水神社>
六石 井戸宮 <和爾賀波神社>
五斗五升 東片本八幡領
三石七斗六升 木太天王領 <牛頭天王>
七石 林宮領 <岩田八幡宮>
一石五斗 池田八幡領
二石四斗二升 植田八幡領 <藤尾八幡宮>
一石二斗 本濱天神領 <中黒華下天満宮>
十六石一斗三升 石清尾太夫 <友安氏>
三石 松縄宮領 <熊野権現>
五十石 一之宮領 <一宮田村定水大明神>
三石七斗四升 由佐八幡領 <冠纓宮>
百石 八幡領 <不詳>
六石一斗六升 香西八幡 <藤尾八幡宮>
二石二斗 飯田宮領 <飯田八幡宮>
二百五十石 伊勢領 <伊勢、伊勢神宮>
六石四斗三升 河部八幡領
二十七石 瀧之宮領 <牛頭天王>
百石 多賀領 <江州、多賀大明神>
九斗 山田宮領 <山田八幡宮>
百二十石 愛宕領 <山城、愛宕権現>
四石五斗 北条天王領 <崇徳天皇社>
六石五斗 宇足津宮 <宇夫志奈大明神>
二石 宇足津弁財天
二石六斗四升 岡田八幡 <上野八幡宮>
一石四斗三升 奥河津宮領 <庄宮八幡宮>
十六石 柞原宮領 <山北八幡宮>
八斗 柞原権現 <素盞大明神>
一石二斗 中分宮領 <會下天満宮>
二十三石五斗 金毘羅領
一石五斗 大日領 <春日大明神>
四石 下吉田宮領 <八幡宮>
三石 下高瀬八幡
三石 楠井明神領 <新田大明神>
一石 楠井権現領
四石七斗 神田宮 <大水上神社>
二石七斗三升 財田上八幡領 <鉾八幡宮>
二石六斗 財田上龍王領
一石四斗 財田上厳嶋之宮
一石五斗四升 財田西天神領
六石六斗 本山大明神 <高良大明神>
三石 笠岡宮領 <宇賀大明神>
三石三斗 仁保宮領 <賀茂大明神>
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