2015年10月6日火曜日

讃岐生駒藩 寺社知行の概要

 
 

合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」より、五葉の画像データを作成、生駒藩政期の寺社に関する記述をご紹介申し上げる。亦、以下に、それらをテキスト表示したものを付す。
本史料は、詳細に検討していくと、数多の視点から数多くの示唆を受けとることが出来る。謂わば、歴史の宝庫である。
合掌。


参考
生駒家家臣分限ノ記 第四版  上坂氏顕彰会1999年9月11日刊
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2010/10/blog-post_1559.html


一、寺社知行


三十石 引田八幡領 <譽田神社>
二十石 白鳥八幡領
三十五石 水主宮領
一石五斗四升 入野八幡領 <石清水八幡社>
三石六斗 津田浦宮領 <石清水神社>
十石 観音領 <志度寺>
二十石 千手寺 <専修寺>
六石 井戸宮 <和爾賀波神社>
四十三石三斗二升 屋嶋寺
五斗五升 東片本八幡領
三石七斗六升 木太天王領 <牛頭天王>
七石 林宮領 <岩田八幡宮>
一石五斗 池田八幡領
二石四斗二升 植田八幡領 <藤尾八幡宮>
一石二斗 本濱天神領 <中黒華下天満宮>
十六石一斗三升 石清尾太夫 <友安氏>
八石 石清尾宮坊 <宝寿院>
百五十石 勝法寺 <興正寺別院>
三石 松縄宮領 <熊野権現>
五十石 一之宮領 <一宮田村定水大明神>
三石七斗四升 由佐八幡領 <冠纓宮>
百石 八幡領 <不詳>
十八石二升 根香寺
六石一斗六升 香西八幡 <藤尾八幡宮>
二石二斗 飯田宮領 <飯田八幡宮>
百石 法泉寺
二百五十石 伊勢領 <伊勢、伊勢神宮>
六石四斗三升 河部八幡領
六十三石八斗 国分寺
二十七石 瀧之宮領 <牛頭天王>
二石五斗 菩提寺 <菩提院>
百石 多賀領 <江州、多賀大明神>
九斗 山田宮領 <山田八幡宮>
百石 玉龍院 <京都、玉龍院妙心寺>
百二十石 愛宕領 <山城、愛宕権現>
六十石 白峯領
四石五斗 北条天王領 <崇徳天皇社>
六石五斗 宇足津宮 <宇夫志奈大明神>
二石 宇足津弁財天
二石六斗四升 岡田八幡 <上野八幡宮>
五十石 弘憲寺
一石九斗 福成寺
九斗六合 高林寺 <専立寺>
一石四斗三升 奥河津宮領 <庄宮八幡宮>
十八石 見性寺
十六石 柞原宮領 <山北八幡宮>
八斗 柞原権現 <素盞大明神>
一石二斗 中分宮領 <會下天満宮>
二十三石五斗 金毘羅領
三百六石五斗 松尾領
一石五斗 大日領 <春日大明神>
九石三斗 まんだらじ <曼陀羅寺>
五十石 誕生院 <善通寺>
四石 下吉田宮領 <八幡宮>
三石 下高瀬八幡
三石 楠井明神領 <新田大明神>
一石 楠井権現領
一石 楠井薬師領
二石 柞原寺
四石七斗 神田宮 <大水上神社>
二石七斗三升 財田上八幡領 <鉾八幡宮>
二石六斗 財田上龍王領
一石四斗 財田上厳嶋之宮
二石一斗 財田中乗覚院 <高橋氏>
一石五斗四升 財田西天神領
六石六斗 本山大明神 <高良大明神>
一石五斗四升 持寳院 <本山寺>
三石 笠岡宮領 <宇賀大明神>
四十石 けんぎょう與 <寳壽院神宮寺>
三石三斗 仁保宮領 <賀茂大明神>
一石 覚城院
三石九斗七升 萩原寺
六石六斗 興昌寺


一、御初尾米

切米十石 萩原寺 
切米五石 薬師坊<鞍馬>
切米五石 窪之坊<高野山> 
切米五石 地寳院<高野山>
切米五石 満太夫<熱田>


一、寺領米ニテ渡ス

切米四十石 寒松院 
切米三十石 香林寺

2015年9月12日土曜日

三野郡下高野村   植松少兵衛、そして、興隆寺のこと

過日、古今讃岐名勝図会を紐解いた折り、仁尾に於ける吉田氏の記述に注目した。この件に関しては、既に、本ブログに記している。
その後、優れた先学である佐藤氏が、新たな著作を、お届けくださった。珈琲をいただきながら、お話を拝聴し、幾つかの関連する遺跡を、ご案内申し上げた。数多のご高説を賜わり、実に有意義な時間であった。
佐藤氏のご教示から、以下の小文を認めてみた。学恩に、心からの感謝を捧げるものである。
合掌。

合田學著「讃州三野郡志 史料篇-1」より、三野郡下高野村に関する以下の二頁を抽出した。


                                             

   200石                            植松  少兵衛              生駒隼人組                   
   100石                            西沢  権兵衛              宮部右馬之丞組
      150石                            周敷  平兵衛              船手          
   135石                            小久江彦左衛門         横目奉行        
   100石                            井上  右衛門九郎       上坂勘解由組                   
   100石                            関    志摩介               生駒左門組                  
      77石 3斗 6升                本蔵入(生駒家直轄地)

讃岐生駒藩、藩政後期の下高野には、上記の侍たちの知行所があった。その内の一人、植松少兵衛は、讃岐守護代香西氏の一門である。七宝山を越えれば、嘗て香西氏が代官を務めた仁保(現仁尾町)である。此処に植松少兵衛の知行があることは、まことに感慨深い。亦、船手の周敷平兵衛も知行を得ている。このことの意味を、此れから考えてみたい。



さて、この下高野には、西讃府志、或いは、古今讃岐名勝図会に依ると、興隆寺という古刹があったそうである。



この二著の記述を見ると、西讃府志編纂時には、未だ寺があったようである。然し、古今讃岐名勝図会の文意では、もはや廃寺になっていることがうかがえる。
私は、昨日、興隆寺跡へ出かけた。先の書冊に記されているような寺の遺構は、草木に隠れ見出すことが出来なかったが、磨崖仏や五輪塔の一部は確認することが出来た。この近辺は不思議に満ちている。本山寺境内の大きな五輪塔に関しても謎である。
合掌。



2015年8月20日木曜日

仁尾歴史散歩 その二  吉田氏

梶原藍水氏は、仁尾天神城跡について、その著、「古今讃岐名勝図会」に、以下の如く記している(添付画像)。此処で城主として記録された吉田氏は、先学梶原氏が著された如く、後に生駒家に仕えたことが、「生駒家家臣分限ノ記」「讃州御国中村切高惣帳」等の生駒藩政文書によって確認出来る。



以下、八葉の画像は、吉田氏の名が記された合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」中の当該頁である。











以下の画像は、「讃州御国中村切高惣帳」に記された三野郡仁保村(原三豊市仁尾町)である。吉田儀兵衛の名が見える。



以下の画像は、合田學著「生駒家給人帳、生駒家知行帳」「讃州生駒家に於ける給人知行の概要」から、吉田氏に関する記述及びグラフを抽出したものである。








梶原氏は、前掲書に於いて、生駒家改易後の吉田氏の進退について記しているが、その背景に関しても、先に紹介した吉田儀兵衛の知行所を見ることによって、頷ける。この人は、仁保にも知行所があった。それも、自らが新田開発を行っている。生駒氏襲封以前から仁保と係わりのあった吉田氏の末裔と見て、略、間違いないのではないだろうか。
合掌。

追記
以上、仁保の武将が、中世から近世へと生き抜いた一事例を記した。生駒氏襲封時の知行所が、現在の仁尾の奈辺に位置するか、此れが分かれば、地方の屋敷跡等の確認が進み、古の仁保が再現出来るのだが・・・・・。
合掌。

参考文献
合田學著「讃州生駒家給人帳(第四版1999年6月5日刊)」

合田學著「讃州生駒家知行帳(第四版1999年6月5日刊)」
高野山文書に見る生駒家襲封初期の侍名簿
合田學校訂 「生駒家家臣分限ノ記」   
合田學著「寛永年中讃州生駒家知行帳グラフ篇(第三版2001年11月18日刊
合田學著 「生駒時代高松城侍屋敷図(郭内篇)」

2015年7月15日水曜日

仁尾歴史散歩 その一  履脱八幡神社 (くつぬぎはちまんじんじゃ)






一昨日の散歩時、初めて訪れ参拝を致しました。昨夕、カメラを持参、再度、訪れたのでした。
履脱八幡神社 (くつぬぎはちまんじんじゃ)、心惹かれる社です。
明治の神社整理に依り、社格が村社とされましたが、寛文年間に創建された本殿の美しさ、
6396坪に及ぶ広大な社地、感嘆致しました。

合掌。

追記
以下、香川県神社誌より、当該頁を引用いたします。
合掌。




2015年6月25日木曜日

米良氏研究の手引き

K大兄との旅は、菊池氏の末裔、米良氏へ辿り着いた。 米良氏の概略を知る上で参考となる書冊を、以下、列挙する。 合掌。

宮崎県史 近世 通史編 上・下
宮崎県史 近世 史料編 1・2・3・4・5・6
西米良村史 菊池氏を中心とせる米良史
ふるさとの記米良の荘 菊池氏を中心とせる米良史続編
人吉市史 第一巻
肥後讀史総覧 『人吉相良藩分限帳』
熊風土記  『肥後国相良藩士分限帳』
日向記

2015年5月12日火曜日

S.L.フランク著 道徳的理想と現実

S.L.フランク氏によって発表された「道徳的理想と現実」は、満鉄調査部の嶋野三郎氏によって翻訳され、諸般の事情から、原著者名、訳者名を記することなく、筆名にて、菅波三郎氏の主宰せる日本文化宣揚會より、昭和二十年八月十日、『日本文化宣揚會叢書』の一冊として刊行された。
此の度の再刊にあたっては、底本に、著者が加筆訂正を施した『日本文化宣揚會叢書』本を使用。亦た副本として、嶋野三郎氏の自筆翻訳原稿を随時参照した。(菅波トミ様、高畑妙子様の御好意による。尚、原稿はB5判原稿用紙で、五十一枚ある。)

[付記]
本書は、嶋野三郎氏の著作及び訳述を収録した嶋野三郎著作集の第四巻として、平成八年、十部のみ、私家版が刊行された。